「気分はどうだ？」
「最悪ですね」
橋上の問いに簡潔に答えてから、井手本は身体を起こした。久しぶりの運動に、全身が軋んでいる。
橋上に抱かれた。
セックス自体には禁忌が少ないほうだと思っているし、楽しめれば誰とでも遊べるタイプだ。成人男性がダメなのは中途半端なトラウマのせいだが、今夜の最低な体験はそのせいだけではないだろう。
橋上はウィスキーグラスを手にソファーに身を預けていた。泊まるつもりなのか、シャワーを浴びてもバスローブ姿のままだ。井手本はベッドから手を伸ばして、床に落ちていた自分のバスローブをすくい上げた。それを手に、バスルームへと向かう。
「橋上さんはこのままここに泊まるんですか」
「そのつもりだ。君はどうする？」
「帰りますよ。用意してませんし」
井手本の返答に、橋上は一瞬非難めいた視線を寄こした。しかしすぐに、無表情に「そうか」と続ける。強制はしないらしい。柄にもなく井手本の身体を気遣ってのことだろうか。
部屋のトイレとバスはユニットではなくてそれぞれに独立していた。クローゼットと並んだその部分は、敷居がほんの数センチ高くなっている。
普段なら何事もないそこで、井手本はなぜか足を取られた。広々とした洗面所の床に、盛大にひざを打ちつける。音をたてて手を突いた。見事に転んだらしい。
井手本はめったにない醜態にしばし唖然としていたが、しだいに痛みがこみ上げてきた。
「…痛……」
ここ最近ろくに泣いてもいないのに、簡単に涙があふれてきた。
バスローブの端を顔に押しつけるが、一向に止まらない。
橋上に抱かれた。
成人男性に脅迫付きという不利な状況だったが、最後には感じて、相手も達かせた。いつもなら相手の思惑には関係なく、遊びだと割り切ってしまうことが出来たはずだった。
それなのに、脳ほど身体は物分かりがよくないとでもいうように、涙が止められない。勝手にほおを濡らす。
思った以上に橋上が好きだったのだと思う。一時の快楽よりも行為の意味を求めるほどに。
好きだからこそ、気持ちのすれ違う方がつらい。
「大丈夫か？」
声とともに橋上の気配がすぐそばでした。冷たい床に座り込んで、裸のままバスローブに顔をうずめている井手本の隣に、橋上は寄ってきて膝をついた。
「大、丈夫……」
言うはしから、新たに涙がわいてくる。
突然肩にバスタオルがかけられた。同時に、頭に橋上の手を感じた。
橋上は軽く頭をなでてから、井手本の反応をうかがうような間を置いて、再びゆっくりとなで始めた。
静かな時間が流れた。
帰国時に強引に食事に誘われて、文句を言いつつもレストランで向かい合っているとき、脅迫されて腹を立てながらも依頼内容を聞いているとき、コーヒーを飲みながら、もしくはアルコールを手に、こんな風に無言の時が流れた。慣れたのか、落ち着けるのか、知らずに笑みが浮かぶような。
井手本は深く息を吐き、バスローブで目の周りをぬぐった。
「橋上さん」
顔を上げて、橋上と目を合わす。
「前言撤回します。好きだって言って下さい」
ごまかしでも、今夜の出来事を納得したかった。今夜を、脅迫されて抱かれた日として記憶したくはなかった。
だが、橋上ははっきりと困惑した表情を浮かべた。
「井手本……」
「言葉だけでもいいですよ」
「必要ないだろう。君と、この関係を続けようとは思っていない」
「相性、よくありませんでした？」
「そういうわけじゃない」
「だったら何で抱いたんですか。セックスフレンドとして、僕は失格ですか？」
「……」
問いかける井手本に、橋上は沈黙した。
「何で結婚するんですか」
井手本はバスローブを投げつけたい衝動をこらえた。橋上は優しさも怒りも見せずに井手本を見下ろしており、その冷静な様子はよけいに井手本を苛立たせた。
「見合いをしてみて、家庭を持ってもよいと思える女性だったからな」
「そろそろ潮時だというわけですか。その女性が好きなわけではないんでしょ」
「恋愛というわけではないが、」
「だったら、浮気ぐらいしてもいいじゃないですか」
「井手本。君も知っている通り、夫婦間には貞操の義務があるんだ」
「は？」
「民法第七七〇条だ。性行為をともなう浮気は法廷離婚原因となり得る」
「それは、聞いたことはありますが……」
冗談にしては間がぬけているし、真面目に言ってるのなら質が悪い。
井手本は脱力したまま、目線だけを橋上に向けた。
「もしそれが今後僕と寝ない理由なら、今日のこの茶番は何なんですか。単なる火遊びにしても、僕なら何でも言いなりになるからっていうのなら、本気で縁を切りますよ」
「それで週刊誌に顔写真が載るようなことになってもか」
「……」
井手本は手元のバスローブを橋上に叩きつけた。
「橋上さん、あんたがそのつもりなら、もう二度と会いたくありません。僕をこれ以上振り回さないで下さい」
「……そのセリフは二度目だな」
激昂している井手本をよそに、橋上が低くつぶやいた。
井手本は立ち上がり、ガラス戸が割れんばかりの音をたててバスルームへと閉じこもった。乱暴に蛇口をひねりながら、平手打ちのひとつでも食らわしてやればよかったと考える。
全く進歩していない。
少し熱めのシャワーを頭から浴びて、井手本は記憶を消去する勢いで髪をかき回した。