橋上の手の中のウィスキーグラスが、涼しい音をたてた。中の氷が不安定にゆれている。
ホテルの縦長の部屋には、ツインベッドと窓の間に、一人がけのソファーが二脚置かれていた。
コーヒーのお代わり一杯分悩んだあとに、井手本が指定された部屋に足を踏み入れると、橋上はバスローブ姿でそのソファーに座っていた。入ってきた井手本を一瞥して、何も言わずにグラスをテーブルの上に戻す。
「シャワーを浴びてきてもいいですか」
返事を待たずに井手本は、カバンを入り口近くの棚におき、ハンガーを取り出して上着をかけた。ついでにネクタイも抜き取り、折りたたんで上着のポケットに押し込む。シャツのそでのボタンを外しながら、橋上を振り返った。
「橋上さん、何で急にこんな事を？」
「意味はない」
「結婚前の火遊びというわけですか」
「そうだな」
「正直なところ、こんな事態を考えたこともなかったし、年下にしか興味がないのも事実ですが、それでも橋上さん、脅迫の代わりに好きだとでも言ってくれれば、いつでも試してみるぐらいにはあなたが好きでしたよ」
「言って欲しいのか」
「あなたがそのつもりなら」
無言で橋上はグラスを取り上げ、氷を鳴らした。
井手本はつかのま橋上を凝視してから、再びボタンを外しながら、バスルームに向かった。
井手本がシャワーを終えて出てきたとき、橋上はグラスを手にソファーに腰を下ろしたままだった。
素肌にバスローブをはおっただけの格好で井手本はベッドに腰かけ、橋上を振り返る。考えても納得のいく答えは出ない。橋上の真意は闇の中だ。
橋上が立ち上がり、ベッドサイドの明かりを残して部屋の電気を消した。
「橋上さん、ゲイですか、バイですか」
「どうだろう。寝るだけならどちらともできるが、」
「恋愛対象としては？」
「男だろう」
「そっちの方が驚きです。全然気がつきませんでしたよ」
「そうか」
熱のない答えを返して、橋上が井手本のバスローブをはだけさせた。ついで首筋にくちびるをよせる。身体の線を調べるような愛撫だった。
橋上の冷静沈着な性格は、体温にまでは影響を与えないようで、想像よりも身体が熱いと、井手本は思った。
「橋上さん、今恋人はいないんですか」
「仕事が忙しいからな」
「どんな人が好みです？ 前に付き合っていたのは年上？ 年下？ 筋肉質タイプとか、線の細い子が好きとか。わりと長い付き合いですが、そっち方面の話はあまりしたことがありませんよね。橋上さん、完璧に隠してましたし」
「そうだな」
橋上は満遍なく井手本の身体に跡を残していく。記録するように。慈しむように。
「僕のことは、どうだったんです？ ちょっとは触手が動きました？ それとも全然タイプじゃないですか？ あ、どっちが挿れます？ この様子じゃ橋上さん、ですよね。僕も普通はそうなんですけど」
「……井手本、少しは静かにできないのか」
呆れたように橋上が顔を上げる。井手本は空いている手で前髪をかきあげた。
「ご存じの通り、男との強姦まがいのセックスは僕のトラウマです。何かで気をまぎらわせていないことには、とてもやってられません」
井手本が皮肉で返すと、橋上は眉をひそめた。
「どういうことだ？」
「調査済みではないんですか。カナダで友達に襲われそうになってから、僕は成人男性がダメなんです」
「知らなかった」
「ま、脅してやるような人に何を言っても無駄でしょうけど」
「……」
橋上が言葉もなく井手本の肩をベッドに押しつけた。無造作に井手本のモノに手をかけて、ゆるくしごき始める。
「……っん、……」
徐々に高まっていく身体に、井手本は息をつめた。快感を得ようと、必死で神経を集中させる。
それでもよみがえる過去の忌まわしい映像は、体臭や腕の痛みまで再現していて、気分が悪くなる。呼吸が知らずに浅くなった。
機械的とも言える橋上の動きはどこか優しかったが、皮膚の上を動き回る手の大きさが、否応なく大人の男を感じさせた。
井手本は目をつぶって現実から逃避した。
半ば生理的に井手本が達しそうになると、橋上は根元をにぎりしめて我慢させた。
「橋上さん、」
とがめるように声をかけても、他の部分に愛撫を加えるだけだ。
不愉快な記憶と、呼び起こされる快感に、平衡感覚がおかしくなる。脳内でぐらりと身体が傾いた。
切羽詰まって橋上の肩に爪を立てると、ようやく射精が許された。ひきつるような呼吸と共に、橋上の手の中にほとばしらせる。
乱れた呼吸を整える前に、橋上が後ろにも手を伸ばしてきた。
井手本の身体が硬直する。
もともと井手本はセックスにおいてはリードする側であり、受け入れた経験がないわけではないが、もっぱら挿れる側であった。受け入れるということは必然的にカナダでの出来事を思い起こさせる。
「やめて下さい橋上さん」
井手本は思わず橋上の肩を押し退けた。橋上はさからわずに身体を離すと、井手本のそばに手をついた。
「やっぱりダメだと思います。またにしません？」
「駄目だ。今月はもう時間が取れない」
「そういう問題ですか」
「それに今だろうと後だろうとお前の症状に変わりはないだろう」
「だからと言って今ここで無理やりやられて、僕が不能とかになったらどうするんですか」
「治療するんだな」
井手本の訴えを橋上はあっさりと退けた。橋上の薄情さは知っているつもりだったが、これには苦笑するしかない。
「もういいですよ。勝手にやって下さい」
井手本は諦めてため息をついた。
再び触れてきた橋上の指は、すぐさま井手本の体内にのみこまれていった。